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結果への執着

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 7日(土)21時49分29秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  どうも過去と未来にとらわれずに今にあること、
なんて結論に持っていきたかったもんだから、
「結果への執着」という言葉を読み違えていましたね。
これは過去へのとらわれではなくて、
これから来る未来の結果への期待という意味だったようです。
失礼しました。

majuさん、ありがとうございます。

>思うに、この一人一人のシナリオは、ある程度の変更は可能なのではと。

うん、そう思います。
というか、むしろ次の瞬間は常に白紙なんでしょうね。
ただ、この瞬間から必然的に導き出される未来が次に来るということは、
これは変え難いとは思います。
偶然というのは一切無いでしょうから。
あったら世界が支離滅裂になちゃいますもんね。
だから今この瞬間の選択に掛かっているわけでしょうね。
この瞬間の動きが次の瞬間の動きを決定していく。
ま、わかりきった話ですけど。

majuさんが思われたように、
ホ・オポノポノのデリートって、
自然に楽に進んでいくはずの必然的未来を余計な負荷でねじ曲げないように、
過去の体験からくる思い込みを消去する、といったような
意味合いなのかもしれないですね。
ハンドルを手放し、神の世界の必然に身を委ねること、ですかね。
念仏もそのようなものだと感じますか?
その辺、すこし話を頂けるとうれしいです。


うーむ、しかし。
繰り返しになるけど、
しかしそれにしても、
期待せず、具体的な結果を求めず、というのは、
どうなんだろう。

ぼくらには無理なんじゃないかなあ。
と思うけどなあ。
 

るしさん!

 投稿者:maju  投稿日:2009年11月 7日(土)02時29分50秒 p4252-ipbfp203sinnagasak.nagasaki.ocn.ne.jp
  そこのところ、何となく分かるような気がします。
私たちの人生は、神が体験したい事を盛り込んで創作したシナリオに従って演じる劇の様なものではないかしら。
それもひとりひとりにあてがわれた一人ひとつのシナリオ。
だから、その内容を否定したり、勝手に期待や希望を持っては、ストーリーが違ってしまうのではないかしら。
私たちがするべきことは、与えられた人生の一つ一つの場面を、素直に受け入れ、真剣に情熱をもって、経験する事、生きる事なのではないでしょうか。
過去の記憶や価値観に振り回されることなく、また偽自我でありこの劇中の主人公である私が期待する結果に執着せずに、ただあるがままを真面目に楽しむことなのでは。

昔、遊園地のジェットコースター(一回転するの)に乗った時凄く怖くて、前にあるバーにしっかりつかまって構えると、急降下し始めると益々怖くなり、ガッシリしがみついた手が疲れちゃって、ふと、もういいや〜と思って力を抜いた途端に、全く怖さを感じなくなってしまったのです。
ぐるっと一回転して止まり、また後ろ向きに一回転しても、動きに身体を任せていると全然怖いどころか、風景もよく見えて心地良いくらいでした。
人生もこれと同じ様に、ハンドルを手放し、あるがまま、今ここに意識を向けて生きる事なのだと思います。
さらに、思うに、この一人一人のシナリオは、ある程度の変更は可能なのではと。
それが、ホ・オポノポノで言われているデリートする事なのではないかしら。
もしかしたら、シナリオ通りなら問題ないのに、過去の記憶が作用したために修正を余儀なくされたことで、ホ・オポノポノのデリートが必要なのかもしれませんね。
仏教ではお念仏でしょうか。
それも全て偶然ではなく必然だと…神のなさることは計り知れません。

この素晴らしい仕組みに感謝ですね。
 

情熱とは

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 6日(金)20時56分34秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  またやろっと。
「神との対話」から任意にピックアップして好き放題書きます。
今日は文庫本の173ページからです。


 情熱とは、
 「こう在る」ということから「行為」への転換を愛することである。
 情熱は創造というエンジンの燃料である。
 情熱は思いを経験に変える。
 情熱はほんとうのわたしたちを表現したいという思いを駆りたてる火である。
 決して情熱を否定してはいけない。
 否定すればあなたが何者であるか、ほんとうは何者になりたいかを否定することになる。
 悟りとは情熱を否定することではない。
 結果への執着を否定することだ。
 情熱は行為への愛である。
 行為は「ある在り方」を経験することだ。
 それで、行為の一環として何が生まれるか?
 期待だ。
 期待なしに人生を生きること−−
 具体的な結果を必要とせずに生きること−−
 これが自由である。
 これが神性である。
 これが、わたしの生き方である。



なんか難しいとこ選んじゃったかも。
なにしろ情熱とかとは無縁な人生歩んできたですから。

この中でぼくが気に入った言葉は、


 悟りとは情熱を否定することではない。
 結果への執着を否定することだ。


と、終わりのところの、


 期待なしに人生を生きること−−
 具体的な結果を必要とせずに生きること−−
 これが自由である。
 これが神性である。
 これが、わたしの生き方である。


です。

僕たちが生きて行くのに必要なのは、
現状の肯定と、未来への信頼だろうと思うんです。
なので結果への執着を否定すること、と言う、
言い替えれば過去への執着を捨てるということには、
素直に賛同できるのですが、
神は更に、期待なしに人生を生きることが自由であり、
それが神の生き方なのだ、と言うのですから、
つまりは未来への期待をも否定しているというわけです。

過去にとらわれない。
そして未来にも期待しない。
前後を削ぎ落としてただ今に情熱を傾けること。
それが神の生き方だというわけですよね。

なるほど確かに、
僕たちは瞬間瞬間で在るべき在り方を選択しているのかもしれない。
でもその生き方を過去や未来に影響されずに、
ただ、この今に意識を集中させて生きるというのは難儀だなあ。
そりゃま意識的に生きるというのは、
充実した人生を送る最良の方法には違いないでしょうけどねえ。

しかし、骨が折れそうだなあ。
神のように生きるのに、もっと楽なのはないもんかなあ・・・
 

世界を誕生させる

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 2日(月)22時16分31秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  ほんとは長々とお説を披露したかったのですが、
今日も時間が限られているので、簡潔にいきます。

あれやこれや本を読んで、
やっぱりぼくは、ぼくたちという存在というのはこうだ。
こういうものなんだ、と思えるようになったことが二つあります。

そのひとつは、ぼくたちは無数に存在しつつも結局はひとつだということ。
もうひとつは、ぼくたちが無数に存在しているように見えるのは、それは幻想だということ。

これはぼくを納得させてくれた人達に共通の見解だと思います。

そんで、否定性の話なんですが、

ぼくたちがひとつであるとき、ぼくたちの自己愛は究極的だろうと思うんですね。
というのも自分の愛を向ける先が自分しかないからなんですけど。

しかしそういう状態では、恐らく愛は愛という状態ではないんじゃないかって思うんです。
ぼくは愛を能動的なものと理解しています。
だから動きのないところでは、愛は愛として機能することができない。そんなふうに思います。

で、動くためにはひとっところに固まってちゃだめで、
こことあそこと二手に分かれて、キャッチボールをしなくちゃいけない。
そうしたときに初めて愛が愛として意味を持ち始める。

愛を経験するためにはひとつでいちゃだめってわけです。
そこでぼくたちは無数になることを選んだ。
そんなのは幻想でしかないのだと覚醒した人たちは言うんだけれど、
だけど幻想でもなんでもいいから、愛を感じるための舞台を作りたい。
幻想でかまわないから、あなたにいてほしい。
きっとぼくたちはそう願ったんですよ。

ところがこれはぼくたちの完全なる姿の否定でもあるわけです。
自己の真の姿の否定。自己否定ね。
そうして初めてこの世界が生まれる。
動きのない可能性としてしか存在できなかった愛が働き始めたように見える世界の誕生。

ぼくたちが今生きていると思っている、思い込んでいるこの世界は、
だから自己否定から生まれたのだ、というわけです。

そんなことを仕事中にふと思った次第です。
否定性の活用が、この世界を誕生させたっていう、戯言です。
 

否定性の活用

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 1日(日)22時34分53秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  るしです。良太です。

アセマスさん、レスポンス超早ですネ。

>体験から否定性の活用の仕方や否定性のマズイ活用の仕方などを書いてみてはどうですか?

一杯やらないと書き込みしようなんて気が起きないし。
一杯やっちゃうと難しいことは書けないし。
というわけで、今後も誤解を避けることの出来ない舌足らずの文章になるしかないなあ、と。
そんなわけで、どうか許してやって下さい。

「愛を行為として理解してしまっている」

いやはやまったくですネ。
確かにぼくも愛は行為だと、ずっと考えてきました。
人は愛し合わなくちゃいけないし、
人は友好的な付き合いをしなくちゃいけないし、
許し合わなくちゃいけない。

あーしなきゃいかん、こーしなきゃいかん、で
自分をがんじがらめに縛りつけて身動き取れなくしていく。
自分に相当甘いつもりのぼくでさえも、そんな面はかなりあります。
だからもう「ねばならん」で自分を縛りつけているその自分ごと、
まるまんまごっそり許しちゃう。愛しちゃう。ダメな自分と友好的になっちゃう。
そういう作戦で行くしかないゾ。と。
そういうわけですよね。
みなさん、そうでしょ?

アセマスさん、否定性の活用なんて難しいこと言うから、
今日仕事中、ずーっとそのこと考えるはめになりましたよー。
で、ふと思ったことがあるのですが、
今日はお時間がございませんので、
後日、しかも気が向いたらまた書き込ませて頂きます。
 

良太さんへ

 投稿者:アセンションマスター  投稿日:2009年10月31日(土)20時29分8秒 125-14-98-228.rev.home.ne.jp
  多くの人は否定性の上手な活用法に慣れていないのでしばらく休息が必要かもしれません。(こうなる可能性は以前からありワンダフルシェアのほうにチャクラシリーズとしてポジとネガの意識の活用の仕方は先に書いておきました。)

 良太さんの体験から否定性の活用の仕方や否定性のマズイ活用の仕方などを書いてみてはどうですか?


 例えば良太さんが常々感じていた「感傷的な愛は嘘っぱちだ!本当の愛に努力は必要ない!」という真実を誤解のないように伝えてみたい思いはありませんか?

 ここの板の流れのなかで感情的な愛に陶酔し無理をしていると感じてそれを言おうとすると良太さんは少数派なので大勢の意見にかき消されてしまってきたかもしれません。

 『真実の愛は重力と同じく常に存在するものです。重力はニュートンが引力を発見する以前から存在していました。重力は意識するしないに関わらず常に存在するものです。しかし意識すれば上手く活用できる道が開けます。』

 以前、kさんが書き込みをした時もkさんが無理をしていることを最初に気付いていましたね。

 『多くの人々が愛に疲れ、愛を重たい義務のように感じています。』

 これは愛を行為として理解してしまっていることの弊害です。神との対話の中でも人間はヒューマンビーイングでありヒューマン・“ドゥーイング”ではないとの記述が何回も出てきています。

『言葉の定義よりも重要なのは言葉の認識・解釈の仕方です。』

 言葉は単なる記号に過ぎません。その記号が示す感覚やイメージが真実であり、それらの感覚やイメージの決定権は認識を行なう側にあります。つまり言葉の受け取り手の解釈の仕方に全ての責任が存在します。

 例えば神との対話の中で神が普遍的な愛について解説しその重要性に何回も言及していても、読む側に愛を個人のエモーショナルな体験に基づく狭い範囲の限られた認識しかなければ解釈の仕方も限られてしまうでしょう。

 ですから

 『これは二―ルという存在がフィルターとなって伝えられているメッセージである。』

 『真実に到る道は無限にあり、この本も道の一つに過ぎない。』

 と何回も警告・注意がなされています。


 神との対話を読んでも人生が上手くいっていない人は一人もいません。当人の感覚には反するかもしれませんがこれは真実です。

 なぜなら、もしこの本を読んだ読者の全てがこの本を読んだだけで全てが上手くいってしまえば、真実に到る道はこの本だけであるという幻想が生まれ

『真実に到る道は無限にあり、この本も道の一つに過ぎない。』

という真実は無視されてしまうでしょう。

真実に到る道はこの本以前にも存在しています。

真実に到る道はこの本の中にも存在しています。

真実に到る道はこの本以後にも存在しています。


 道がこの本だけなら私たちに自由はありません。愛と自由と真実は同じ意識(認識)の状態です。良太さんがここの板に感じていた自由のなさ、無理した感じは上手く言葉で表現できなかったかもしれません。

 良太さん、酒を飲んで書き込んでいる時とそうでない時の自己表現の違いに気付いていますか?
 私は酒飲みの友人がたくさんいるので、男同士の暗黙の了解として熱い感情は受け取りますが酔っているときの失敗などを受け流すことには慣れています。
しかしここでは理解してもらえず誤解されてしまうリスクがあるでしょう。

 酔っているときの状態が自分らしく感じ素直な表現になるのであれば、それをキャラとして確立して周囲に事前に理解してもらう必要があるかもしれませんね。

 もちろん酔っていないときのほうが自分らしいと感じているのなら、シラフな自分をメインにして本当に言いたい真実を表現することに専念したほうがすっきりすると思いますよ。
 

「人生のすべては神聖だ。」

 投稿者:るし  投稿日:2009年10月31日(土)18時25分53秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  しばらく書き込みが途絶えているようなので、
ひとり言を書かせて頂きます。

あ、ぼくは良太です。
ルシタも気に入っていましたが、ひらがなの方が可愛い感じがしたので、
るし でいこうと思います。
って、別にそんなことどうでもいいですか。

久々に本棚から「神との対話」を持ち出してきました。
もうこの最初の一冊しか手元にありません。
文庫本のやつです。
前半分くらいはマーカーでマッカッカーになっています。

そこで、適当に開いて、そのマーカーで印をつけたところをピックアップして、
なんか書こうかなと。
安直です。昔みんながやっていたようなことです。
ま、でも、安上がりでいいですよね。
ぶつぶつ言ってないで、まいりましょうか。

では、せーの。

あ、いいなあ。

119ページです。文庫本のね。
一カ所だけマーカーしてありました。
こうです。

「人生のすべては神聖だ。」

ええと、これはどんな文脈で語られたかというと、
ニールが自分が神と対話しているなんて考えるのは、あつかましくて、
そんなことを公言するのは狂気の沙汰だと感じている。
で、神は聖書の執筆者だって君と変わりはなかったんだよって言う。
それではこの文書もいつか「聖なる書物」になるのかと問い掛ける。
そこで神がこう答える。

「わが子よ、人生のすべては神聖だ。」

この言葉を本当に心の底の底から言えるようになるには、
ぼくはまだぜんぜん人生経験が浅いかもなあ。

浅いかもしんないけど、
この言葉が真実だということには些かの疑問もないですよ。
人生のすべてが神聖であるというのは、
人生のすべてを肯定できるということですよね。
すべてを肯定できるというのは、
否定するものがないということ。

この、なにひとつ否定しないということは、
実際に人間家業をやっていると、ほぼ不可能なわけなんだけど、
不可能だってことさえ、否定しない。
そんなのイヤだ。ダメだ。ノーだ。
と感じることそのものも、そのまま受け入れる。

これはただ否定しているのとはわけが違いますよね。
否定してしまう自分を肯定的に受け入れるところに自分が立つ、
立っていると認識しているわけですから。
そういうことだから、決してただイヤだと言っているわけではないと、
ぼくはそう思います。

そうやって、世の中のイヤな部分、自分の中のイヤな部分、
そんなのをひとつひとつそのままに肯定してしまう。
そういうことをしていると、
ふと、自分のあるがまま、世界のあるがままが、
そのまま神聖なものとして感じられる時がやってくる。

「人生のすべては神聖だ。」

神が言うんだから間違いないでしょう。
今の自分がどんな状況に置かれていようとも、
それが自分にとっての神聖なる一瞬です。
自分が輝いている姿です。

いや、全ての人、全ての物、全ての出来事は、
どんな瞬間にも、まったく輝きを失ったりしたことはない。
これからも輝きが失われることはない。

そんなふうに感じて、また明日もぼくはバカをやる。
オメデタイ人生を紡ぎます。

みなさんも、どうぞオメデタイ一日をお過ごし下さい。

「人生のすべては神聖だ。」by 神

のっけからいいとこ開いちゃいましたね。
 

蓮花さんへ 

 投稿者:アセンションマスター  投稿日:2009年10月16日(金)20時02分10秒 125-14-107-162.rev.home.ne.jp
  上手く伝わっていなかったので補足します。

以前、良太さんとのやりとりがあった最中に蓮花さんが9月18日の書き込みで

>「私の中で(あくまで私的感覚ですよ!念のため)、良太さんは<陰>、アセンションマスターさんは<陽>なんですね。そして、私の中に両者がいて、それを具現化したのがお二人という感覚なんです。だからお二人は私にとって<師>なんです。」

 と書いてあり、また10月6日の書き込みで

>「私を理解してくれる人がいる…というだけで、心が安らぎます。」

と書いてあったので、“理解が他者からくる”という幻想に陥る可能性があり10月9日の書き込みをしました。


 理解を外部に求めると自己の本来の聡明さを“見失って”しまいます。魂の聡明さは絶対的なものなので“失う”ことはありませんが眼(意識)を自己から離して他者へと集中してしまうと様々な自己の特質を“見失って”しまう原因になります。


私は本を読むことや新しい知識を習得することを否定しているのではありません。(認識シリーズに詳しく書きましたが新しい認知の枠組みを創造するには新しい知識や言葉、もしくは古い知識や言葉の拡大化が必要です。)

私が皆に注意を促しているのは、

『幻想から脱却の過程では外部の権威者を必要としなくなる。』

という点です。

まだ説明不足のこともあるかもしれませんが、遠慮しないできいてください。メッセージを書いた説明義務が私にはあると思いますので読む側の人には当然の権利として納得のいくまで私が解説します。

私のメッセージはこれまでの認知の枠組みを変えて新しい現実を創造するためのものなので、従来の考え方や言葉の定義で理解をすることが難しいはずです。

難しくても不可能なことではないので自分のペースで自分の人生に集中するカタチで取り組んでみてください。


成長の過程では過去の自分や現在の自分にはできないことが啓示として示されます。そのときも自分のセルフイメージを落とさずに未来へ目(意識)を向けることが大切です。

例えば二ールさんは神に質問するたびに

「私たちはそこへは向かっていないんですね!」

といってしょっちゅう落ち込みます。すると神は

「なぜ向かう先と方法を教えてあげたのに落ち込んでしまうのか?行き方(生き方)が分かったのだから素直に喜ぶべきなのではないのかね?」

 と未来へ意識を向けることを促します。

また以前ワンダフルシェアルームに菜食や光のエネルギーを取り入れることが意識進化・成長の過程でできるようになることをかきました。そのとき普段掲示板などに参加されたことのないかたから

「肉食をする人は救われないのですか?」

とのメールを直接いただきました。私の答えは短く要約すると

『私のメッセージは未来の在り方を示すもので、未来の選択肢を増やして自由な選択・プロセスを創造するためのものです。現在できることだけを選択肢にしてしまうと限られた選択しかできず現状は何も変わらないでしょう。
現在、肉食であるならば「未来の自分は菜食どころか自分でエネルギーを生み出して他者へ活力を与える非暴力主義の究極形態を選択している可能性があるな。」と考えるといいですよ。・・・。』

と長々と解説しました。


何度も書いてきましたが無知は幻想世界で冒険を可能にするための装置であり祝福です。

神との対話の中にも書かれていますが冒険を急ぎすぎて宇宙の神秘をいっぺんに暴こうとしないことです。
そうすると意識が平均的なあり方から乖離しすぎて急激な戻しにあい不安定な現実を創造してしまいます。
 

ヒューマニティチーム

 投稿者:アセンションマスター  投稿日:2009年10月16日(金)19時57分23秒 125-14-107-162.rev.home.ne.jp
   神との対話シリーズの『昨日の神』にのっているヒューマニティチームが日本全国でも活動中です。私も2012年の11月から参加していく予定です。

 詳しくは  http://humanitysteamjapan.com/japan/  にアクセスしてみてください。
 

ナカムスさんへ

 投稿者:maju  投稿日:2009年10月13日(火)12時20分38秒 wb31proxy02.ezweb.ne.jp
  共感していただきありがとうございますハートx2

私は九州なので、関東へはなかなか行けません。
東京では色んなセミナー等も多いようですが、参加されたことはございますか?
私はこの掲示板を通して、沢山の方がブログを書いてらっしゃるのを知り、あちこちお邪魔して勉強させていただきました。
人と人を繋ぐ場所でもあると思います。

良江さんや良太さんはその御役目をもたれた方なのかもしれないですね!
お世話になってますチョキ^o^ハートx2
私が今お邪魔しているブログは、「いまここ塾」です。こちらからまた紹介された方のブログへもお邪魔したりしています。
mixiにも色んなコミュニティーがあり、遠くても近くにいるようにお話しができるのは本当に素晴らしい事です。

みなさん花ありがとうございます♪
m(_ _)m
 

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