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苦痛なしの喜びとは苦痛を身体レベル(知覚正面、肉体、心体、知性体)で経験していながら、同時に魂のレベルで客観的に観察できている状態です。
今までの流れの繰り返しになりますが
『観察の対象(身体)と意識が一体化している場合は苦しみをリアルに経験します。しかし意識を観察の対象から引き離している場合はリアリティが薄れます。』
『問題解決(観察の対象を機能的に働かすこと)には意識を問題から引き離して、一つ上の次元から観察することが有効です。』
ここからは“るし”さんの名前(役割・機能)と関係してきますが、多くの人々の苦しみを共有しかつ自由に生きるための知恵を見出すことが可能になるはずです。
絶対的領域から神やマスターが「人生なんて幻想だから“苦しみ”なんてありはしない。」なんて言っても、相対的な領域で実際に苦しみを経験している生命にとっては「俺達の現実を理解していない!」となります。
上の文章を訂正して
絶対的領域から神やマスターが「人生なんて幻想だから“苦しみや喜び”なんてありはしない。」なんて言っても、相対的な領域で実際に“苦しみや喜び”を経験している生命にとっては「俺達の現実を理解していない!」となります。
ここで神やマスターたちが経験している現実に関してより正確に理解していくことが現実をあるがままに経験するヒントになると思います。
1. 全ては一体である。絶対的領域と相対的な領域は分離して存在しているのではなく、相対的な領域は絶対的な領域の部分として存在しています。
2. 神やマスターも相対的な領域を経験している。相対的な領域に対する執着がなくリアリティが薄いのは事実です。
3. 全体性の中で全てを理解している。例えば知覚正面のお金や土地といった2次元身体を所有という限られた現実(狭い意識視野)で観察しているのではなく全体的な関係性のもとで知覚正面を観察をしています。また心体のイメージ・思考・感情といった4次元身体を肉体という限られた現実(短い時間意識)で観察しているのではなく永遠性のもとで心体を観察しています。
永遠性の時間認識のもとでは全ての生命が自分自身を開放(自力で救済)し、成功をおさめているのが観察できるので神やマスター達のメッセージは「あなたにも同じことが簡単にできる!」という内容になってしまいます。
4. 機能と役割を理解している。相対的な領域も究極的には絶対的な領域です(全ては一体であるから)。しかし相対的な領域には相対的な領域固有の個性・役割つまりダルマ(本質・法・義務などを意味する梵語)があり、神やマスター達はこの宇宙の機能性を尊重し活用しています。
他にも様々な理解がありますがあげていったらきりがありません。なにせ魂は全知全能なのですから。
真の解放とは全知全能に戻るプロセスそのものです。全てを機能的に理解して現実に適応し永遠に永続します。
逆に言えば機能性を無視して適当にやってしまえば適当な現実を経験しますし、知恵や理解を放棄して無知を深めれば現実は機能不全に陥ります。(神との対話の中で人類が急激な適応に迫られているとの警告がありますが、これはこの本の読者に向けたもの。幻想を幻想として受け取りたい人達には関係がありません。真実を意識的に生きたい存在へのメッセージとして二―ルさんというフィルターを通してもたらされています。)
ここでの対話は
A.意識的に(現実を創造して)生きる。
B他者依存型の文化(幻想)ではなく、(より真実に近い)自己創造型の文化を選択する。
という前提のもとでなされていると思います。
他者依存型の文化では自由を経験できません、なぜなら他者が変化(活動)を起こしてくれなければ自分の現実に変化が起こらない現実を“無意識のうちに創造してしまう”確率が優勢になるからです。
“責任”という事例を出してみます。
デスクワークをしている途中で同僚が自分の机の前を通り、消しゴムをひっかけておとしてしまったとします。
「消しゴム落としたから拾っといて!」
と言ったら、気付かずにそのまま行ってしまいました。
もしここで、同僚が落としたことに固執して同僚が拾うのを待つならば、消しゴムを自由に使うことができないでしょう。
しかし、自分でさっさと拾ってしまえば消しゴムはすぐにつかえます。
別例をあげます。事故や事件に巻き込まれた場合なども同様です。この場合は保険屋さんや警官、弁護士の役割を尊重して彼らに任せるのも大切です。しかし最終的な解決は事故や事件に対する執着から離れてはじめて成しえます。
いつまでも加害者を恨んでいては自由はありません。自分の意識を引き離すという自発的な活動によって心体(感情など)の自由を取り戻すことが可能です。
自己創造型の文化では被害者は存在しません、
『自分の身体(知覚正面・肉体・心体・知性体)の管理は自分でしたほうが自由であることを知っているからです。』
ですから自己創造型の文化では加害者も当然存在しないことになります。
他者依存型の文化では責任は道徳・宗教の倫理観の影響から重い罪の意識などと結びつき積極的にとられることはありません。
反対に自己創造型の文化では責任は道徳・宗教の倫理観(機能性)の影響から自由や変化の意識と結びつき積極的に喜んでとっていきます。
あと、るしさんは神との対話シリーズを全て読んでいないみたいですが一応目を通すほうがいいかもしれませんね。
メッセージの内容はシリーズ全てで抽象度の高いレベルでは変わりません。しかし二―ルさんの意識レベルの変化で具体的なレベルでの内容に変化がみられます。これは神が全ての個性(意識レベル)を受容し受け入れているからです。
しかし読者の中には自分の期待する内容ではないとして離れてしまうケースがよくあります。
愛や感謝といった“抽象度の高い概念”は解釈する側が自分の意識レベルに合わせて自由に解釈でき共感が生まれやすいという事実があります。
しかし宗教的な規律に見られるような“具体的な行動指針”は受け取り手の意識レベルに合わなければ共感は生まれにくい事実があります。また意識レベルというものは一定ではなく変化するのが自然ですから、同じ具体的な行動指針(メッセージ)を続けるのは現実的ではありません。
二―ルさん自身、「行間になぜ半年もかからなければならないんだ!!」と嘆いているように神からのメッセージを特定のやり方で受け取ったりコミュニケーションをしたりするのは困難です。ですから読者が行間の移動に何年かかろうが問題はありません。
逆に成長にこだわらず、特定のコミュニケーションに固執しなければ、神はいつも私達とともにあり対話を続けていることを簡単に認識できます。
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