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多くの人は否定性の上手な活用法に慣れていないのでしばらく休息が必要かもしれません。(こうなる可能性は以前からありワンダフルシェアのほうにチャクラシリーズとしてポジとネガの意識の活用の仕方は先に書いておきました。)
良太さんの体験から否定性の活用の仕方や否定性のマズイ活用の仕方などを書いてみてはどうですか?
例えば良太さんが常々感じていた「感傷的な愛は嘘っぱちだ!本当の愛に努力は必要ない!」という真実を誤解のないように伝えてみたい思いはありませんか?
ここの板の流れのなかで感情的な愛に陶酔し無理をしていると感じてそれを言おうとすると良太さんは少数派なので大勢の意見にかき消されてしまってきたかもしれません。
『真実の愛は重力と同じく常に存在するものです。重力はニュートンが引力を発見する以前から存在していました。重力は意識するしないに関わらず常に存在するものです。しかし意識すれば上手く活用できる道が開けます。』
以前、kさんが書き込みをした時もkさんが無理をしていることを最初に気付いていましたね。
『多くの人々が愛に疲れ、愛を重たい義務のように感じています。』
これは愛を行為として理解してしまっていることの弊害です。神との対話の中でも人間はヒューマンビーイングでありヒューマン・“ドゥーイング”ではないとの記述が何回も出てきています。
『言葉の定義よりも重要なのは言葉の認識・解釈の仕方です。』
言葉は単なる記号に過ぎません。その記号が示す感覚やイメージが真実であり、それらの感覚やイメージの決定権は認識を行なう側にあります。つまり言葉の受け取り手の解釈の仕方に全ての責任が存在します。
例えば神との対話の中で神が普遍的な愛について解説しその重要性に何回も言及していても、読む側に愛を個人のエモーショナルな体験に基づく狭い範囲の限られた認識しかなければ解釈の仕方も限られてしまうでしょう。
ですから
『これは二―ルという存在がフィルターとなって伝えられているメッセージである。』
『真実に到る道は無限にあり、この本も道の一つに過ぎない。』
と何回も警告・注意がなされています。
神との対話を読んでも人生が上手くいっていない人は一人もいません。当人の感覚には反するかもしれませんがこれは真実です。
なぜなら、もしこの本を読んだ読者の全てがこの本を読んだだけで全てが上手くいってしまえば、真実に到る道はこの本だけであるという幻想が生まれ
『真実に到る道は無限にあり、この本も道の一つに過ぎない。』
という真実は無視されてしまうでしょう。
真実に到る道はこの本以前にも存在しています。
真実に到る道はこの本の中にも存在しています。
真実に到る道はこの本以後にも存在しています。
道がこの本だけなら私たちに自由はありません。愛と自由と真実は同じ意識(認識)の状態です。良太さんがここの板に感じていた自由のなさ、無理した感じは上手く言葉で表現できなかったかもしれません。
良太さん、酒を飲んで書き込んでいる時とそうでない時の自己表現の違いに気付いていますか?
私は酒飲みの友人がたくさんいるので、男同士の暗黙の了解として熱い感情は受け取りますが酔っているときの失敗などを受け流すことには慣れています。
しかしここでは理解してもらえず誤解されてしまうリスクがあるでしょう。
酔っているときの状態が自分らしく感じ素直な表現になるのであれば、それをキャラとして確立して周囲に事前に理解してもらう必要があるかもしれませんね。
もちろん酔っていないときのほうが自分らしいと感じているのなら、シラフな自分をメインにして本当に言いたい真実を表現することに専念したほうがすっきりすると思いますよ。
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