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ほんとは長々とお説を披露したかったのですが、
今日も時間が限られているので、簡潔にいきます。
あれやこれや本を読んで、
やっぱりぼくは、ぼくたちという存在というのはこうだ。
こういうものなんだ、と思えるようになったことが二つあります。
そのひとつは、ぼくたちは無数に存在しつつも結局はひとつだということ。
もうひとつは、ぼくたちが無数に存在しているように見えるのは、それは幻想だということ。
これはぼくを納得させてくれた人達に共通の見解だと思います。
そんで、否定性の話なんですが、
ぼくたちがひとつであるとき、ぼくたちの自己愛は究極的だろうと思うんですね。
というのも自分の愛を向ける先が自分しかないからなんですけど。
しかしそういう状態では、恐らく愛は愛という状態ではないんじゃないかって思うんです。
ぼくは愛を能動的なものと理解しています。
だから動きのないところでは、愛は愛として機能することができない。そんなふうに思います。
で、動くためにはひとっところに固まってちゃだめで、
こことあそこと二手に分かれて、キャッチボールをしなくちゃいけない。
そうしたときに初めて愛が愛として意味を持ち始める。
愛を経験するためにはひとつでいちゃだめってわけです。
そこでぼくたちは無数になることを選んだ。
そんなのは幻想でしかないのだと覚醒した人たちは言うんだけれど、
だけど幻想でもなんでもいいから、愛を感じるための舞台を作りたい。
幻想でかまわないから、あなたにいてほしい。
きっとぼくたちはそう願ったんですよ。
ところがこれはぼくたちの完全なる姿の否定でもあるわけです。
自己の真の姿の否定。自己否定ね。
そうして初めてこの世界が生まれる。
動きのない可能性としてしか存在できなかった愛が働き始めたように見える世界の誕生。
ぼくたちが今生きていると思っている、思い込んでいるこの世界は、
だから自己否定から生まれたのだ、というわけです。
そんなことを仕事中にふと思った次第です。
否定性の活用が、この世界を誕生させたっていう、戯言です。
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