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るしさん
>良太は執拗に「無意味である世界で苦しむのは御免だ」と言い続けているんですが、
最近そういう心理的パッケージをそのまま良しとして受け入れたような
ここがポイントだとすると苦しみを対象として客観的に受け入れ(受容)、感覚的に苦しみよりも大きな自分を発見・体験しているために本来の自分により近い人生を体験しているのではないでしょうか?
苦しみ(観察の対象)に執着しているときは意識が苦しみと一体化しているので、相対的に苦しみよりも小さな自分を経験することになります。つまり苦しみの一部として自分がある感覚です。
一方で「無意味である世界で苦しむのは御免だ」ということを受け入れてしまった状態は苦しみが自己の一部となっているので、相対的に苦しみよりも大きな自分を経験することになります。
『愛(majuさん的にI)が全てであるならば苦しみもその一部として存在しても当然です。』
でも(苦しみよりも)小さな自分を経験しているときには当然気付けないですよね。これは意識の在り方からみて自然な事象であり私も当然経験しています。
ではこれを避ける在り方はあるのか?というとありますが相対的な領域特有のパラドックスを経験することになります。
苦しみを避けようというのは根っこの部分に苦しみに耐えられない弱いセルフイメージを創造してしまうことになります。
逆に苦しみを積極的に受け入れていこうとする姿勢の根っこは苦しみに負けない強い自分というセルフイメージを創造します。
相対的な領域での人生はこのセルフイメージ(偽自我)を反映するカタチで体験をすることになります。ですから苦しみを避ける在り方とは苦しみをあるがまま受け入れている苦しみよりも大きな自分でいることです。
で、「そうか苦しみを避けるには苦しみよりも大きな自分でいればいいのか!」と気付くことになりますが、相対的な現実では上手くいく人と上手くいかない人がでてきます。
『苦しみを避ける“目的”では苦しみよりも大きな自分を体験できません。しかし、純粋に自分らしさを表現するプロセスで“何の目的も無し”で“より大きな自分”を表現すれば“不必要な”苦しみはなくなります。』
神との対話の中で
「喜びと感謝と愛と受容と祝福は同じもの(意識状態)」として記述されています。
今の良太さんの体験では『愛と受容と自由な感覚は同じ体験(意識状態)』として認識できるのではないでしょうか?
以前
>僕だけが体験できる僕だけの現実なんすから。
と表現したときの自分の状態を思い出してみてください。
その魂のポジションをキープした状態で今経験している苦しみに対する自由な感覚と愛と受容の意識状態を意識的に観察してみてください。
そして、その意識状態にそうカタチで感謝と祝福という言葉の定義をし直してみてください。(ワンダフルシェアルームのほうに5月31日に書き込んだ定義のプロセスを参考にしてみてください。)
神との対話のなかで、感情や思考そして経験というコミュニケーションが上手くいかなかったときに言葉というコミュニケーション手段を神は使うと言っています。
言葉は記号に過ぎませんからコミュニケーション手段としては限界が存在します。
感謝と祝福に関して良太さんなりの定義をした上で、良江さんの定義する感謝や愛について話し合うと良太さんの宇宙・世界がより拡大すると思いますよ。二人は宇宙で対照的な立場をとることがよくあるみたいなので両者の観察場の相違を上手く活用すると神との対話読者全体の大きな気付き(悟り)を加速させる原因になります。詳しくは二人がこの掲示板で対話を再開したときに話します。
P.S良太さん“るし”って堕天使ルシファー(地蔵菩薩)から来てるのでは?ルシファーは高いところから人々を裁くのは卑怯だと感じて地上の苦しみをともに分かち合おうとして天界から降りてきたんだけど別に神と喧嘩別れしたわけではないんですよ。(この次元の人達は宗教の影響で誤解をしていますが。)むしろ仏教の地蔵菩薩のような存在がルシファーです。地蔵菩薩は地獄の衆生の苦しみを分かち合いながら仏道を究めようとして、すすんで地獄に入り衆生救済に取り組む存在です。
これらは宗教的な信念に拘束された物語なので相対的な領域から自由になるためには物語の意味合いを変える必要があります。
いずれこのことにもここの掲示板で皆ですすめていくことになると思います。
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