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 投稿者:   投稿日:2009年11月 9日(月)01時19分21秒 211-127-156-48.customer.soloot.jp
               俺は俺だ!

美というのは、あとを濁さない。ただ流れるのみだ。
だが美しさに囚われた時、濁り、そこに止まるのだ。

自然は美しい。美しいと思える物もある。またそうと思えないもの。
それに囚われた時、今という瞬間、自分本来の感覚が見えなくなる。
今日という一日が見えてたのに、不意に過去の選択肢が浮かび惑う。
惑うという感覚。それが今の自分の答えなのに。楽しそうでも違う。
まっ、自分の感を無視すれば、自分を無視しただけのことが起こる。
これがまあ、今までおいらにとって好ましくないことの原果だった。
原課とは、原因と結果は同じだということで創った、おいら辞書さ。
囚われなければ、自分が美しいと思うものも、どこでもついてくる。
それに従わなかったとき、例え美しいものを見ても、感じないのだ。
そして美しいと思ったとしても、その美しさに囚われてれば囚われ。
自分自身を無視して囚われるならば、自分を無視したことが起こる。
まっ、このおいらの辞典も、今の時点の答えで、また変わるかもさ。
幸せな時というのは、あんま考えないな。精神世界のうんちくもさ(これも中毒だな。
ここのところ、ある意味鈍感になったな。鈍感な方が直感的かもさ。

           自分自身の時が在る

やっほーい、前に書いたおまわりさんとのやり取りだが、ぶり返した(盗難自転車か確認。
今週…、月曜頭ということにして先週にするか、三回やり取りしたな。
今日は本当うんざりした。また思いっきり怒鳴りあった。怒鳴ったの
おいらだけどね(大笑い。いやー、心の底から、警察は嫌いと思った。
警察というか、昨日会った奴のことが嫌いだな。鏡効果や云々は別に(どうせ、俺の中の世界だ。
して。おいらは昨日会った奴ら四人が嫌いだ。これもおいらの感覚だ。
こっちは一匹なのに、わらわら警官が集まってきて、それも笑えたが。
そのことを言っても、何を言っても、どちらか引かなきゃ終わらんが(任意もくそも無い。
ばっくれようとしても警官に囲まれ、唯一納得の行く条件を出し引く。
その後、まだ熱がさまない内、また警官に呼び止められたが、シカト(スルー。
うんざりしたついでに、更に思いっきりこの感じを味わうことにした。
また創造しようがどうしようが、とにかく心の中でぶちまけすっきり。
元々警察とのやり取りのきっかけは、奴らに協力したことで始まった。
たいしてやりたくないのに協力した故、更にドラマの協力者になった。
最初協力する時の感覚も、心のどこかで本当はやりたくなかったのだ。
今日うんざりした結果、その時の感じがほんわかと出て来たりしたよ。
まあこの考え方は、おいらにとってこの場でも起きていたといえよう。

それが思考的に良いだの悪いだの考えようと、感覚の方が大事なのだ。
まあ、神との対話は破り捨てたが、良いだの悪いのだのは幻想だしね。
師は死んだ。精神世界で「覚えた」言葉の数々も、更に消えつつある。
それはその人またはその霊的存在のやり方であり、おいらはおいらだ。
って、書いてる自体、囚われていると「分析」するが、まっ、イっか。

まあ、本来今日は彼らと出会うはずじゃなかった。感覚を無視したよ(笑。
それはほんの些細なことだったが、それを無視した為の結果だったな(鈍感にならねば。
まっ、おいらはおいらでいる時、警官と出会っても止められないがね(ぷっ。

       まっ、おいらはおいらという個性だ

さてと、また何かしらシンクロしているかもだが、んじゃまたさらば。
 

おっと〜スパーク

 投稿者:maju  投稿日:2009年11月 9日(月)01時14分46秒 wb31proxy05.ezweb.ne.jp
  良太さんハートx2
本性の天使になっちゃいましたね天使キラキラ
 

次の瞬間は白紙?

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 8日(日)22時26分30秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  >次の瞬間は常に白紙

書いてる本人が「ホントかい?」と思ってる程度です。
言葉の遊びですから、自分の気に入ったように書けばいいんですよ。
なんて無責任な限りで恐縮です。

>『この瞬間の動きが次の瞬間の動きを決定していく。』
 とすると、時間が強調されてる様に感じてしまいますが…
 本当は時間なんてないのですよね?

確かにそんな感じがしますね。
今があるだけだと言いながら、そんなに時間の流れを強調するのもおかしなはなしです。

「本当は時間なんてない」というのは、
しかしこの世界を幻想と観る観点からすれば、ということになりますかね。
動きを体験するために生まれたこの世界での感じ方としては、やはり時間も空間もある。
この世界が幻想であるという立場に立てば時間も空間も幻想だ、と、
そんな感じじゃないでしょうかね。
なにしろぼくたち時間の中で、
というかそういう概念の中で生きているので、
これを客観的に、ひとつ上の次元からの視点で読み解くというのは難しいですよね。


ところで、ちょっと自分のこと書いていいですか?

良太は執拗に「無意味である世界で苦しむのは御免だ」と言い続けているんですが、
最近そういう心理的パッケージをそのまま良しとして受け入れたような、
なんか抵抗するために築いた壁がふっと消えて、
アセマスさんの指摘のように、なんか一つ落ちたんでしょうか、
同じ苦しみを抱えたままで妙な幸福感に包まれてしまった感じがあります。

そういう感じから、これまで執着してきた、
自己のアイデンティティのために必要と感じていた対象との一体化に、
綻びができはじめているのかもしれないと自己診断しています。
いや、正直に言うと、
もう苦しみとの自己同一化は相当破綻してしまっていると感じています。

たまたまこのところの心理状態がそうだというだけで、
新たな苦しみに遭遇したら、また世界を罵り始めるのかもしれないし、
それともホントにもうなんか通り抜けちゃったのかもしれないし。
それはよくわかりませんけど、
ぼくは今何の根拠もなく幸せで困っています。
 

アセマスさん!

 投稿者:maju  投稿日:2009年11月 8日(日)03時29分7秒 wb31proxy03.ezweb.ne.jp
  そこのところ、何となく分かる様な気がします。

期待とエネルギーと情熱について、とっても分かりやすくて嬉しくなります。
ありがとうございましたもみじ


るしさん!
人生という劇のシナリオについて、やっぱり次の瞬間は常に白紙なんでしょうか?
サーチ『この瞬間の動きが次の瞬間の動きを決定していく。』
とすると、時間が強調されてる様に感じてしまいますが…
本当は時間なんてないのですよね?

サーチるしさんのここ『
ぼくたちがひとつであるとき、ぼくたちの自己愛は究極的だろうと思うんですね。
というのも自分の愛を向ける先が自分しかないからなんですけど。
しかしそういう状態では、恐らく愛は愛という状態ではないんじゃないかって思うんです。
ぼくは愛を能動的なものと理解しています。
だから動きのないところでは、愛は愛として機能することができない。そんなふうに思います。
で、動くためにはひとっところに固まってちゃだめで、
こことあそこと二手に分かれて、キャッチボールをしなくちゃいけない。
そうしたときに初めて愛が愛として意味を持ち始める。
愛を経験するためにはひとつでいちゃだめってわけです。
そこでぼくたちは無数になることを選んだ。
幻想でもなんでもいいから、愛を感じるための舞台を作りたい。
幻想でかまわないから、あなたにいてほしい。
きっとぼくたちはそう願ったんですよ。
ところがこれはぼくたちの完全なる姿の否定でもあるわけです。
自己の真の姿の否定。自己否定ね。
そうして初めてこの世界が生まれる。
動きのない可能性としてしか存在できなかった愛が働き始めたように見える世界の誕生。』

そうそう!神は壮大なスケールの舞台を創造し、地球や動植物や人間のひとつひとつのシナリオを創ったのだと思います。

愛とはあらゆる感情を体験する事ではないかしら?
神はたったひとりだと、ただ淋しいという感情しか体験できなかったから…汗

まだまだ考えるお題は沢山ありますね〜!
わくわく♪♪♪
 

執着と期待の活用法!?

 投稿者:アセンションマスター  投稿日:2009年11月 7日(土)22時27分5秒 125-14-98-228.rev.home.ne.jp
   気のせいか“るし”に名前を変えてから良太さんの表現がさっぱり爽やか系になってしまい別人のような感じがします。(何かが落ちてすっきりしたみたいですね。まだ経過かもしれませんが。)
 否定性の活用の仕方、神との対話からの引用と解説で上手くまとまっていますね。Majuさんのフォローも合わせてみると分かりやすいですね。(全ての存在が神からのメッセージなのだから当たり前なんだけど、否定性を使うときは意識が縮小して全てとの関係性が見えなくなってしまい気付くのが難しくなる。見えないだけで関係性は常に存在し、関係性のもとに全ては常に一体。)



 さて執着と期待の活用のしかたについて書いてみたいと思います。

 執着とは意識が観察の対象と一体化してしまいそこから抜け出せなくなっている状態です。また観察の対象を自己と同一視してしまっているために観察者(創造者)である真の自己を忘れてしまっている状態です。

 活用の仕方としては他者(観察の対象)をリアルに体験できる点があげられます。ここでいう他者(観察の対象)は物・人・社会の三者です。

 物として現れた他者は知覚正面上に観察されます。お金や土地は2次元的な身体です。この身体の健康や豊かさを保つことは肉体や心体の健康・豊かさを保つことと全く同じく大切なことです。(当人が健康や豊かさを望んでいることが前提です。)

 さて他の意識体の管理するお金や土地は他の意識体の自由意志に任せられています。ですから当然自己の支配できるお金や土地といった2次元身体は自己の管理下にあるお金や土地です。

 ここで執着つまり意識が観察の対象と一体化している状態を想定してみましょう。

 他者依存型の文化(幻想)では他者のお金や土地と意識が一体化しやすい傾向があります。そのために自分の活用できるお金や土地などの2次元身体の在り方の適切な管理をおろそかにしてしまいがちです。すると自分の2次元身体から様々な信号(メッセージ)が出ていても気付くのが遅れてしまいます。

 自己創造型の文化(これも幻想・ゲームの一種。真実に限りなく近く自由度が高い幻想形態。神との対話の読者のほとんどがこちらに移行中。)では基本的に無意識に執着することはありません。しかし自分の管理する2次元身体を適切にコントロールするために意識を2次元身体に入れています。
意識的な投入なのでいつでも抜くことは可能ですが、他者依存型の文化と接触の度合いによっては意識が執着レベルでの一体化をもたらす可能性は充分にあります。


『そもそも全ては一体ですが、相対的な領域ではバラバラであるという実感に基づく認識が生み出す現実をどう扱うかがゲームを楽しめるかどうかのポイントになります。』


『もし特定の対象にだけ一体感を感じているのならそれは幻想です。しかし、存在するものと存在しないもの、そして存在という認識を超えた全てに対して一体であることを観じているのなら一体であることは真実そのものです。(この時、観じている自己と観察の対象の間に区別はありません。)』



 相対的な領域では、観察の対象⇔観察場(観察者のいる位置)の関係性を適切に理解して機能的に働かせるほうが面白いでしょう。(全ては一体なんだから何やっても同じでしょではめちゃくちゃになり、人によっては苦しいだけでなんも楽しくない人生が創造されます。)

 意識は観察の対象と観察場の間で情報がやりとりされている状態です。どちらかに極端に傾いていると機能しません。

 ですから正常な状態では水の意識によって観察の対象側の情報が観察場へフィードバックされ、火の意識によって観察場の情報が観察の対象に対して表現されます。

 自己創造型の文化では自己(偽自我)の所有(魂の管理)する身体が表現のための観察の対象(場)となります。対象と場が一体となっている現実を生きることになります。

 他者依存型の文化では他者の管理下にある身体を自己(偽自我)の欲求を表現するための場として認識してしまう傾向があり争いや対立の原因を生み出します。観察の対象と場は別の機能(自由意志)をもっているのに無理やり一つにしてしまうやり方が執着を通した一体化から生まれます。



 『執着は一体化という幻想を生み出すのに役立ちます。よりスリリングで先の読めない展開を人生に求める上で役に立つツールであるといえるでしょう。』



 『観察の対象から意識を離すことで執着は自然に消えます。本来の軽やかで自由なあり方に簡単に気付くことが可能になります。』



 ここで重要なのは意識を離すことです。嫌な物事から身体が逃げても意識が嫌な物事に執着して一体化している限りは何も変わりません。





“期待”の活用の仕方は諸刃の剣になりやすいので注意が必要かもしれません。期待は情熱を高める利点がありますが、これは同時に期待が裏切られた瞬間に情熱を瞬殺する原因にもなりえます。

 自己創造型の文化で真の自己(魂=観察者=創造者)のあり方に期待するなら情熱を無条件に高められます。しかし神や魂に期待や崇拝は必要ありませんのである意味無駄ですが、偽自我を一時的に鼓舞して高みをのぞかせてあげるという意味で有益です。

 他者依存型の文化では主に他者(観察の対象)に期待をしますが、他者には他者の自由意志があり選択の自由がありますから結果は他者次第となります。
そこで、他者が期待通りの活動をした時には喜びから間違った学習をしてしまう可能性があり他者への依存度が増し幻想はより濃くなります。
もし他者が期待を裏切り自分の情熱を削ぐ結果をもたらしても、他者への執着から解放されるきっかけとなるなら自由を得る近道となりえます。

 多くの人たちは期待のエネルギーの使い方を知らず身体が疲弊しています。

1・他者に期待せず自己に期待する。
2・自己とは何かを探求する。

 これらの段階を経ることで最終的には期待というエネルギーを必要としない真我のあり方を生きることが可能になります。

 始めは偽自我への期待でいいですから自己へのエネルギー投資を増やすといいでしょう。本当の自分に気付き偽自我から解放(正確には偽自我を解放する)されれば魂の冷めぬ情熱に目覚めエネルギー不足におちいることはなくなります。


*補足・執着の例で知覚正面(2次元)主体で書きましたが観察が容易であれば上位の次元の身体とその対象(人や社会)についても同じことが観察できます。
 

結果への執着

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 7日(土)21時49分29秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  どうも過去と未来にとらわれずに今にあること、
なんて結論に持っていきたかったもんだから、
「結果への執着」という言葉を読み違えていましたね。
これは過去へのとらわれではなくて、
これから来る未来の結果への期待という意味だったようです。
失礼しました。

majuさん、ありがとうございます。

>思うに、この一人一人のシナリオは、ある程度の変更は可能なのではと。

うん、そう思います。
というか、むしろ次の瞬間は常に白紙なんでしょうね。
ただ、この瞬間から必然的に導き出される未来が次に来るということは、
これは変え難いとは思います。
偶然というのは一切無いでしょうから。
あったら世界が支離滅裂になちゃいますもんね。
だから今この瞬間の選択に掛かっているわけでしょうね。
この瞬間の動きが次の瞬間の動きを決定していく。
ま、わかりきった話ですけど。

majuさんが思われたように、
ホ・オポノポノのデリートって、
自然に楽に進んでいくはずの必然的未来を余計な負荷でねじ曲げないように、
過去の体験からくる思い込みを消去する、といったような
意味合いなのかもしれないですね。
ハンドルを手放し、神の世界の必然に身を委ねること、ですかね。
念仏もそのようなものだと感じますか?
その辺、すこし話を頂けるとうれしいです。


うーむ、しかし。
繰り返しになるけど、
しかしそれにしても、
期待せず、具体的な結果を求めず、というのは、
どうなんだろう。

ぼくらには無理なんじゃないかなあ。
と思うけどなあ。
 

るしさん!

 投稿者:maju  投稿日:2009年11月 7日(土)02時29分50秒 p4252-ipbfp203sinnagasak.nagasaki.ocn.ne.jp
  そこのところ、何となく分かるような気がします。
私たちの人生は、神が体験したい事を盛り込んで創作したシナリオに従って演じる劇の様なものではないかしら。
それもひとりひとりにあてがわれた一人ひとつのシナリオ。
だから、その内容を否定したり、勝手に期待や希望を持っては、ストーリーが違ってしまうのではないかしら。
私たちがするべきことは、与えられた人生の一つ一つの場面を、素直に受け入れ、真剣に情熱をもって、経験する事、生きる事なのではないでしょうか。
過去の記憶や価値観に振り回されることなく、また偽自我でありこの劇中の主人公である私が期待する結果に執着せずに、ただあるがままを真面目に楽しむことなのでは。

昔、遊園地のジェットコースター(一回転するの)に乗った時凄く怖くて、前にあるバーにしっかりつかまって構えると、急降下し始めると益々怖くなり、ガッシリしがみついた手が疲れちゃって、ふと、もういいや〜と思って力を抜いた途端に、全く怖さを感じなくなってしまったのです。
ぐるっと一回転して止まり、また後ろ向きに一回転しても、動きに身体を任せていると全然怖いどころか、風景もよく見えて心地良いくらいでした。
人生もこれと同じ様に、ハンドルを手放し、あるがまま、今ここに意識を向けて生きる事なのだと思います。
さらに、思うに、この一人一人のシナリオは、ある程度の変更は可能なのではと。
それが、ホ・オポノポノで言われているデリートする事なのではないかしら。
もしかしたら、シナリオ通りなら問題ないのに、過去の記憶が作用したために修正を余儀なくされたことで、ホ・オポノポノのデリートが必要なのかもしれませんね。
仏教ではお念仏でしょうか。
それも全て偶然ではなく必然だと…神のなさることは計り知れません。

この素晴らしい仕組みに感謝ですね。
 

情熱とは

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 6日(金)20時56分34秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  またやろっと。
「神との対話」から任意にピックアップして好き放題書きます。
今日は文庫本の173ページからです。


 情熱とは、
 「こう在る」ということから「行為」への転換を愛することである。
 情熱は創造というエンジンの燃料である。
 情熱は思いを経験に変える。
 情熱はほんとうのわたしたちを表現したいという思いを駆りたてる火である。
 決して情熱を否定してはいけない。
 否定すればあなたが何者であるか、ほんとうは何者になりたいかを否定することになる。
 悟りとは情熱を否定することではない。
 結果への執着を否定することだ。
 情熱は行為への愛である。
 行為は「ある在り方」を経験することだ。
 それで、行為の一環として何が生まれるか?
 期待だ。
 期待なしに人生を生きること−−
 具体的な結果を必要とせずに生きること−−
 これが自由である。
 これが神性である。
 これが、わたしの生き方である。



なんか難しいとこ選んじゃったかも。
なにしろ情熱とかとは無縁な人生歩んできたですから。

この中でぼくが気に入った言葉は、


 悟りとは情熱を否定することではない。
 結果への執着を否定することだ。


と、終わりのところの、


 期待なしに人生を生きること−−
 具体的な結果を必要とせずに生きること−−
 これが自由である。
 これが神性である。
 これが、わたしの生き方である。


です。

僕たちが生きて行くのに必要なのは、
現状の肯定と、未来への信頼だろうと思うんです。
なので結果への執着を否定すること、と言う、
言い替えれば過去への執着を捨てるということには、
素直に賛同できるのですが、
神は更に、期待なしに人生を生きることが自由であり、
それが神の生き方なのだ、と言うのですから、
つまりは未来への期待をも否定しているというわけです。

過去にとらわれない。
そして未来にも期待しない。
前後を削ぎ落としてただ今に情熱を傾けること。
それが神の生き方だというわけですよね。

なるほど確かに、
僕たちは瞬間瞬間で在るべき在り方を選択しているのかもしれない。
でもその生き方を過去や未来に影響されずに、
ただ、この今に意識を集中させて生きるというのは難儀だなあ。
そりゃま意識的に生きるというのは、
充実した人生を送る最良の方法には違いないでしょうけどねえ。

しかし、骨が折れそうだなあ。
神のように生きるのに、もっと楽なのはないもんかなあ・・・
 

世界を誕生させる

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 2日(月)22時16分31秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  ほんとは長々とお説を披露したかったのですが、
今日も時間が限られているので、簡潔にいきます。

あれやこれや本を読んで、
やっぱりぼくは、ぼくたちという存在というのはこうだ。
こういうものなんだ、と思えるようになったことが二つあります。

そのひとつは、ぼくたちは無数に存在しつつも結局はひとつだということ。
もうひとつは、ぼくたちが無数に存在しているように見えるのは、それは幻想だということ。

これはぼくを納得させてくれた人達に共通の見解だと思います。

そんで、否定性の話なんですが、

ぼくたちがひとつであるとき、ぼくたちの自己愛は究極的だろうと思うんですね。
というのも自分の愛を向ける先が自分しかないからなんですけど。

しかしそういう状態では、恐らく愛は愛という状態ではないんじゃないかって思うんです。
ぼくは愛を能動的なものと理解しています。
だから動きのないところでは、愛は愛として機能することができない。そんなふうに思います。

で、動くためにはひとっところに固まってちゃだめで、
こことあそこと二手に分かれて、キャッチボールをしなくちゃいけない。
そうしたときに初めて愛が愛として意味を持ち始める。

愛を経験するためにはひとつでいちゃだめってわけです。
そこでぼくたちは無数になることを選んだ。
そんなのは幻想でしかないのだと覚醒した人たちは言うんだけれど、
だけど幻想でもなんでもいいから、愛を感じるための舞台を作りたい。
幻想でかまわないから、あなたにいてほしい。
きっとぼくたちはそう願ったんですよ。

ところがこれはぼくたちの完全なる姿の否定でもあるわけです。
自己の真の姿の否定。自己否定ね。
そうして初めてこの世界が生まれる。
動きのない可能性としてしか存在できなかった愛が働き始めたように見える世界の誕生。

ぼくたちが今生きていると思っている、思い込んでいるこの世界は、
だから自己否定から生まれたのだ、というわけです。

そんなことを仕事中にふと思った次第です。
否定性の活用が、この世界を誕生させたっていう、戯言です。
 

否定性の活用

 投稿者:るし  投稿日:2009年11月 1日(日)22時34分53秒 p2241-adsao01yokonib2-acca.kanagawa.ocn.ne.jp
  るしです。良太です。

アセマスさん、レスポンス超早ですネ。

>体験から否定性の活用の仕方や否定性のマズイ活用の仕方などを書いてみてはどうですか?

一杯やらないと書き込みしようなんて気が起きないし。
一杯やっちゃうと難しいことは書けないし。
というわけで、今後も誤解を避けることの出来ない舌足らずの文章になるしかないなあ、と。
そんなわけで、どうか許してやって下さい。

「愛を行為として理解してしまっている」

いやはやまったくですネ。
確かにぼくも愛は行為だと、ずっと考えてきました。
人は愛し合わなくちゃいけないし、
人は友好的な付き合いをしなくちゃいけないし、
許し合わなくちゃいけない。

あーしなきゃいかん、こーしなきゃいかん、で
自分をがんじがらめに縛りつけて身動き取れなくしていく。
自分に相当甘いつもりのぼくでさえも、そんな面はかなりあります。
だからもう「ねばならん」で自分を縛りつけているその自分ごと、
まるまんまごっそり許しちゃう。愛しちゃう。ダメな自分と友好的になっちゃう。
そういう作戦で行くしかないゾ。と。
そういうわけですよね。
みなさん、そうでしょ?

アセマスさん、否定性の活用なんて難しいこと言うから、
今日仕事中、ずーっとそのこと考えるはめになりましたよー。
で、ふと思ったことがあるのですが、
今日はお時間がございませんので、
後日、しかも気が向いたらまた書き込ませて頂きます。
 

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