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虚無感や絶望感を抱くのは偽我だけだ。
あるがままの自分を愛せないといったって、
愛せないで苦しんでいるのは偽我だけだ。
エゴだけ。自分と思っているものだけ。
ただ幻想の中でだけ。
大丈夫だよ。
私たちというのは私たち自身を心底愛している。
なにも心配はいらない。
誰一人、何ひとつ見捨てられるものは無く、
どの経験も、どの想いも忘れ去られることは無い。
全てが愛の結晶であり、
全ての瞬間が神の夢の実現だ。
虚無感や絶望感に浸っていることですら、
神の歓喜の真只中の出来事でしかない。
苦しみや悲しみの作り出す大いなる障壁さえも、
神の喜びの前では薄紙程の効果も無い。
神の前では何ひとつ障害ではあり得ない。
そして、
その神こそがこの私たちだ。
否、そういう神に
私たちは、私たちの意志でなったのだ。
虚無感に襲われた時には虚無感を愛するがいい。
絶望感に身動きが取れなくなった時には、
ただ絶望感に浸り切るがいい。
見せ掛けの天国を探し求めれば、
かつての私のように地獄を彷徨うはめに陥るだけだ。
だがそんな時でさえも、
結局私は、
自己の真なる愛を失うことは無く、
聖なる輝きに曇りひとつ与えることは無かった。
だから私たちは、
一瞬たりとも愛で無かったことなど無いのだと思い出そう。
ニールだって言ってただろう?
学ぶんじゃない、思い出すだけなのだって。
その通りだ。
完全なる愛である私たちには学ぶことなど何も無い。
だからもう
そんなちっぽけな自我のぬいぐるみなんか脱ぎ捨てて、
ただ愛でいてごらん。
「私は苦しい」ゴッコなんて人から笑われるだけだ。
苦しいまんまで、そのまんまで、
神の愛の完全なる姿なんだってもう観念することだね。
実際のところ、偽我は
今の自分たち自身を在るべき姿だと認めたがらないものなのさ。
だけど、あるがままが神の望む姿。
成ろうとすべき課題なんてなにひとつ無いことに、
白旗を揚げたらどうかな。
いいかい?
愛であろうとする必要すらないんだ。
初めから愛剥き出しでいるんだから。
光り輝く必要もない。
いつだって輝き続けてきたのだから。
ひとつに成ろうとする必要だってない。
私たちはこれまで、ひとつでなかったことなんてなかったのだから。
ただこの幻想を手放しさえすればいいんだよ。
偽我が想い描くこの馬鹿げた幻想の世界を手放しさえすればね。
「意味の世界」を手放すんだ。
そうしてみようとしてごらん。
私たちが愛であるのに理由なんて必要はない。
今このままで完全なる愛だ。
そこに付け足したり削り取ったりする必要はない。
進歩も退歩も神の前では無意味だ。
私たちは今ここでこのままのこれでいいんだ。
これが神の望んだ姿だ。
あなたがそこに意味を与えたりする必要はないし、
あなたがそうであることにあなたなりの意味なんて必要ない。
ただいまあなたがあるそのままであってごらん。
それは完全なる姿だ。
完璧なる姿だ。
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