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アセマスさん、毎度いろいろありがとうございます。
僕なりにもう一度否定性について表現してみます。
多くの人が語っている、実は否定性は肯定性と一体のものなんだという理解には、実体験は伴わないものの強く賛同しています。今、自分の態度を振り返ってみて言い訳させてもらうなら、僕が否定性にこだわったのは、周囲の人が否定性の否定にこだわり、それが結局全体性の否定につながっているのだということに気付いてもらいたかったということです。自分はポジティブだと考える事は単なるネガティブの否定であって、それは肯定性を否定する態度と同じだけ世界を否定しているのだと言いたかったのです。
そういう態度が苦しみを生むのだとブッダは語ったと理解しています。
>宇宙には肯定・否定という両極(方向性)の間に様々な比率の中間種(多様性)が存在しています。
僕には多様性について語る用意は全くありません。が、今想像してみるかぎりで言うならば、両極の間に存在する多様性の無限性を、連続するひとつのものと捉えずにそれぞれにポイントつまり意味を設定するということに問題があると考えます。アセマスさんも世界は無意味であると言った。だから自由に意味を与えられるのだと。でも僕は世界は無意味なまま受け取る必要があると考えます。もちろんこれは現実の意識の場でではなくて拡張された意識における認識に関わる問題かもしれませんが、なにしろ少なくとも心の隅に世界は分離されていないという想いが無ければ、ひとつの意味はあっという間に無数の意味を生み出し、あっけなく苦しみの種で自分を覆い尽くすことになるだろう、ということです。これ、単に僕の意味アレルギー、多様性アレルギーかもしれませんけど。
>神秘体験の基準を派手な演出の光の体験だけでなく日常的な小さな気付きも含めるようなものにしてみてください。
>『神の祝福が普遍的なものであるのなら、普通の日常的な光は神の祝福そのものです。』
美しいなあ。見事な表現ですね!
今この瞬間のあるがままが神の息づかいなのだという想いを、日常のなかでどれだけ想起できるかが大事なところですよね。
>幻想からの段階的な解放を体験するたびに私がいうことがわかり、信じる必要性から解放されるでしょう。
幻想からの解放なんて本当に有り得るんだろうか?
幻想からの解放という幻想を見ることなら最近巷でハヤリのようですが・・・
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