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自然に境目はありませんが人工物(物だけでなく社会的な制度なども含む。)には明確な境界があるようです。
山や川そして海などを分けているのは人間の記号(言語)活動です。山や川に明確な境界線は存在しません。
山や川そして銀河などのマクロな自然から分子・原子そして素粒子やエネルギーといった、より精妙なレベルの自然・生命にも明確な境界線は存在しません。
どこからどこまでが自分の原子なのでしょうか?どこからどこまでが自分のエネルギーの流れであると言えるのでしょうか?
『記号(言葉)の定義によって境界線が創造されます。』
基本的に文明とは言語(記号)活動の多様化と発達によってもたらされます。そうすることで物質を自由に扱え物質文明が発達します。
一方で他者依存型の文化では特定の権威者が記号(言語以外も含む)を定義するので、その定義からはずれた記号活動は修正されたり制約を受けます。
本来記号活動の多様化は個性の多様化も促します。しかし特定の権威者によって特定の方向にしか進むことのできない文化では個性が修正され一元化の力で均一になっていきます。
『高度な精神文明では自己を自由に定義できるので言語(記号)的束縛感のない文明が発達します。』
今、地球上で人間は高度な物質文明を発達させています。一方でナガス鯨種やアフリカ象種のように高度な精神文明を発達させた生命体が存在します。
UFOのような空間(環境)に負荷を与えるタイプの乗り物を移動手段とする物質文明を極度に発達させた宇宙人達は主に人間に接触をはかってきています。
逆に、環境(空間)と調和した高度な精神文明を発達させた宇宙人たちは、肉体や心体などの身体を自分の惑星領域にとどめたまま、意識レベルでの交流を主にナガス鯨族やアフリカゾウ族と行なっています。
この状況は以前レムリア(ムー)とアトランティスという文明が同時に地球に存在していたときとそっくりです。
アトランティスでは水晶の振動性をエネルギー変換して空間から膨大なエネルギーを取り出して物質文明(物に関する科学)の栄華を極め地球を汚染し、他の生命形態を絶滅に追いやりました。
レムリアでは自己(生命)に関する科学が発達していたので精神文明と物質文明の二元性を超克して、観察の対象(物・人・社会)と観察場(観察者の位置=知覚正面・肉体・心体・・など)そして空間の三位を理解した上で、自然・生命と調和する進化を遂げました。
人間が作り出した建物やお金そして思想活動や社会制度に意識(エネルギー)を費やすと個性(この場合は“違い”や“異なる点”)が対立と分断の原因となる傾向が生まれがちです。
神が創造した自然などの生命そのものに意識を交流させると個性の違い(役割や関係性)を認めた上で全ての生命に共通する本質(ダルマ)を認識することが容易(自然)にできやすくなります。
都会にいても空をみたり大地を認識できますし、大自然の田舎暮らしでも地域社会の風習(社会制度)や建物などの人工物を認識することができます。
『何を選択するかは全くの自由です。』
私も都会から離れて別荘でのんびりする時に、たまに余計な仕事や人間関係をせっかくの田舎暮らしに持ち込んでしまうことがあります。そして自分らしくない自分にハッと気付くこともあります。そういうときは人間らしいこの次元の人生にかわいらしさと愛しさを感じます。
余計な人間関係や仕事があるという認識は意識レベルの低さをあらわしていますから自分らしくないわけです。
自己を定義することで関係性を創造しているのですから“余計”な人間関係も仕事も自分の認識が生み出していることに気付けます。
西洋的な発想では自然は克服しなければならない文明の対立要素と認識されます。(対立から明確な境界と定義つまり分離が生まれる。)
東洋的な発想では人間は自然の一部ですから自然と文明は調和して当然です。(調和から関係性に基づく一体感を生み出しやすい。あいまいで流動的な境界線と定義が生まれるのも特徴。)
言い古された東西文明の二元性ですが西洋化された日本の文化そして日本人の意識構造を見直すと自己の意図的な再創造に役立てることができます。
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